さごたに通信

2012年2月3日 06:46:56 カテゴリ: 未分類

第4章 3次会で、ついに「ぶっ放す」

2次会⇒3次会の移行は、あまりはっきりせず、招待講演の川本教授ご夫妻が帰られたくらいだった。(「川本君が帰った」 ⇒ 「招待講演の川本教授ご夫妻が帰られた」・・・なんか、えらい「格差」ですよね・・・笑)

もう少し人数が減って、いよいよ「身内だけ」っぽくなったら、ぜひ今回こそは、断固決行しよう・・・と、広島出発前から心に誓っていたことがあった。それは、かつて広島学院中学校の夏季キャンプ(1964年7月、飯野山貯水池)での夜のキャンプファイアーで林先生が歌ってくださった、山の歌の数々での美声に触発されて、あらためて「歌うこと」に傾倒した「成果」としての「カンツォーネ・ナポリターナ」を、先生にお聞かせすることだった。川本ご夫妻が帰って行った頃合もよし(ごめん、川本君)・・・まだ40~50人くらい残っていらっしゃってはいたけど、すっかり雰囲気は「身内だけ」なのを見て取って、いきなり立ち上がる。

「せっかくなので、歌の前にひとことだけ・・」と断って、これも「身内だけになったら・・・」の、とっておきのエピソード(23年前に23年ぶりに先生を訪ねて下関にやってきた時の思い出)を短く話したあと、いきなり歌い始めた。スピーチのときに持っていたマイクロフォンをテーブルに戻して。

1 曲目・・・(いや、当初はこの一曲だけに留めるつもりであった)は、Core ‘ngrato (和訳:つれない心・・・むしろ「カタリ、カタリ・・・」として知られている)の、Catari, Catari….と、何度も繰り返すところの一部を、参加していた女性(複数)の名前に置き換えて歌った・・・というより、むしろ「ぶっ放した(!)」と言ったほうが適切な表現であろう。現役時代、大げさに申せば「世界各地でぶっ放して」きたこの歌、どこでも幸いかなりウケてきたので、ここでも・・・と期待したのだが、やはりウケた・・というか、めっちゃウケまくってしまった。なによりも、最前列のかぶりつき(?)で聞いてくださっていた林先生が、えらく褒めて下さったのです!

ちなみに、今検索したら、YouTubeで、全曲聴けましたね・・・Salvatore Licitra の美しいテノールで。(http://www.youtube.com/watch?v=LIu7h3wa5Zo&noredirect=1)

ついでに、字幕で歌詞が出たので、書き写しときますね・・・下関では「意味」を解説しなかったので。

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Core ‘ngrato (つれない心、または「カタリ、カタリ・・・」)

カタリ、カタリよ、なぜつらい言葉でぼくの心を苦しめるのだ?

忘れないでおくれ、お前に捧げたぼくの心を、忘れないで!

カタリ、カタリよ、どんな意味なのだ、ボクを苦しめるその言葉は?

お前は、ボクのこの苦しみを考えようともしてくれない、ぼくを、慰めてくれようとさえしない

つれない心よ・・・

お前は、ぼくの心を奪った

すべては過ぎ去った・・・お前はもうボクを愛してくれないのか・・・。

(繰り返し)

すべては過ぎ去った・・・お前はもうボクを愛してくれないのか・・・。

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(要するに、伊太利亜版「恨み節」ですな、哀れなダメ男の・・・まるでボクの人生の縮図のような・・・力ない自嘲的な笑)

歌い終るや、やんやの拍手とアンコールを頂戴し、次は、有名なO, sole mio! つづいて、やはり「かぶりつき」状態だった背の高い若い兄ちゃんからリクウェストのあったTurna a Solento (帰れソレントへ)、ひとつくらいは日本の歌・・・ってことで、宮崎民謡「刈り干し切り唄」、しまいには、そろそろネタ尽きそうになって、普段はめったに歌わない Arapete fenesta !(窓を開きてよ ! ) まで歌いきって、ようやく終止符。さきほどリクウェストしてくれた長身大柄のにぃちゃんが駆け寄ってキョーレツなハグ・・・短身のボクの両足が浮き上がったのであった。

5曲続けざまに歌って、すっかりハラも減り、喉も渇き、席に戻って改めて食べ、飲み続けたのであった。

読み返してみて・・・いやはや自慢が過ぎましたね。あそこで聞いてくださった(いや、否応なく「聞かされて」しまった)主に下関の皆様、とんだお耳汚しでしたね。ぜひ、Salvatore Licitra の美しいテノール(上記)で、お聞き直し下さいませ。

*  *  *  *  *

さて・・・この長編シリーズも、これで4回を数えてしまいました。このあと、センターに泊めていただいて、寝るまでのこと、あくる朝の下関の探索・・・と、いくらでも続けられるんですが、すっかり長くなっていまいましたので、ここらで一旦「完」とさせていただきます。

1・24に開始して今日までの約2週間医わたるこの「長期連載」(笑)に、最後まで辛抱強くお付き合いくださった皆様に、深く感謝申し上げます。

そして、誰よりも、Yちゃん、大城さん、松野・古沢ご夫妻様、伊藤記者さん、浦神父様、KKさん、Aさん,Shさん、『狐拍子』のマスター・・・など、下関で初めて出会い、交流させていただいた、ここにとても全てのお名前を書ききれないほどの多くの方々に、深い感謝のご挨拶を送らせていただきます。

それから・・・末筆に近くなりましたが、23年ぶりに再会させていただきながら、「初対面の方々」に重点を置きすぎて、ご挨拶しかできなかった赤司先生、たいへん失礼しました。あれから23年を経ても益々お元気なお姿を拝見して、とても心強い思いでした。

今日からは、また「日常」に戻って、4月から立ち上げようとしている、私にとって生まれて始めての「事業」(?)について、ぼつぼつとご紹介して行こうと思いますので、また、これに懲りずによろしくお付き合いください。

えっ・・・「厳冬期・・・」も「ワンダーランド」もまだ「続き」のままだぞ・・ですって? はい、しっかり承知しております。いずれ、必ずや・・・(笑)

(完)

 

 

2012年1月30日 03:03:21 カテゴリ: 未分類

第3章 2次会にて

「一次会」は、いったんお開き。遠く東京や北海道(?)からもいらっしゃってたお客様は、この辺でお帰りになって、それでも2/3ほどはまだ残っていらっしゃった状態で、そのまま「2次会」に突入。

料理も進み、お酒も進み(地酒?の獺祭=だっさい=がよかった!)・・・で、次第に皆さん

の口と耳がゆるくなったころを見計らって、ボクもようやくひとこと。話し始めるや、肝心の林先生が軽く会釈をしてからトイレ?に立たれたのがちょっとショックだったけど、「こいつの、きっと長くなるに違いない演説をじっくり聴いてやろう」との暖かいご配慮であろう・・・と好意的に受け止めて、かまわずにしゃべり始める。

冒頭に「50年近く前にお世話になった生徒として、まずは、下関の皆様に「先生が大変お世話様に・・・」という挨拶から始めると、頃合よく戻ってこられたので、その「50年近く前」の、とっておきの思い出話を二つ、三つ・・・「川本君の講演に出てこなかったエピソード」として。最後は、これまで、先生を囲む会で何度かやった、得意の「タピオカ」で、締めくくる。

下関市立大学の学生、SさんとAさん

タピオカの話:先生との丸々2年間のお付き合いで、記憶していることは、モーレツたくさんあるけど、肝心の授業(なぜか、地理を担当されていた)の内容は、さっぱし覚えていない。唯一覚えているのがこの「タピオ

カ」で、先生が中1の授業で「オレが中学で受けた地理の授業で、唯一記憶しているのが『タピオカ』だ。」とおっしゃったこと自体が、私が林先生の授業で記憶している、これまた唯一の話・・というオチである。

その後の歓談では、地元の下関市立大学の学生さんと談笑したりした。写真のお二人(AさんとSさん、順序に意味はない。写真掲載承諾済み))には、ひょんなことから、私の次男の処女作品(漫画『初恋雀』)を郵送する約束を。

「下関から帰ったらすぐに・・・」と堅く誓ったにもかかわらず、1・30現在まだ送り出してない。今日中には必ず送りますので、待っててねぇ~。

当初から「気にな

る」女性の方がいらっしゃった。大城医師が今回の記念祝賀会の総責任者であれば、その「副責任者」ともいうべき、Kさんとおっしゃる女性(なんで大城医師が実名で、KさんはKさんなのか・・・特に理由はありませんが、ただなんとなく)で、本職はヨガのインストラクターだとか・・・。センターの入り口に「ヨガ教室」の張り紙があり、カトリックの施設でヨガか・・とちょっと意外だったが、まあ、この極めてエキュメニカルなセンター長だから、大いにありうること・・・と理解していたのだった。まさにこのKさんこそ、ここでヨガ教室を開設なさってる本人だったと

いうことが、名刺を交換して初めてわかった。「だいたい同い歳くらいですよ」とおっしゃるのが

信じられないほどの若々しさと、スレンダー・ボディに、チョーがつくほどのショートヘア・・・まさしく、「これぞヨガの先生」である。

カトリック新聞社から、取材にいらっしゃった伊藤記者さん

一人の若い女性が立ち上がってスピーチされた。東京の「カトリック新聞社」から、わざわざ林神父の取材に来られていた、伊藤記者さんである(左の写真)。

伊藤さんは「20年以上前に、林神父からカトリック新聞に寄稿していただいた記事が基になっているのに、なぜ今回『岩波』からの出版なんだか、本社から調べて来いと言わ

れて、はるばる下関までやってきました」と、会場を沸かせた。

講演会場で、重たい高級一眼レフで頻りに写真を撮っておられて、ボクがビデオ撮影などでうろちょろして邪魔をしかたもしれない・・・と気づいて、ご挨拶の直後に名刺を差し出してご挨拶すると、「あ、今切らしてし

カトリック新聞(2012・2.5付)より。クリックして拡大すると、ちゃんと記事が読めます。

まったので、あとから郵送します」とおっしゃってくださった。そして・・・それから12日後の2月3日、ちゃんと彼女の名刺が送られてきた、そのときの取材で書かれた記事の掲載された「カトリック新聞」とともに。

その他に、1次会の始まった直後にお話させていただいた、阪大の松野教授と東京女子大の古沢教授(このお二人、夫婦別姓のご夫妻)、はるばる博多から駆けつけられた上智福岡中・高等学校の浦神父様とも名刺を交換し、このほかにも、実に多くの方々(ほぼ全員が初対面)との交流を、堪能させていただいた一夜であった。

さて・・・夜の帳(とばり)も降りて、いよいよ3次会である。

(続く)

2012年1月28日 04:06:48 カテゴリ: 未分類

第2章 偶然の出会い頭~記念講演~パーティ

慌てて運転席に行き、日和山公園へは?と尋ねると、運転手さん、ためらうことなく「丸山町ですね」と、ひとこと。

表示しっぱなしにしていたケータイのMAPを見ると、丸山町では、ちと行き過ぎな気がする・・・でも、バスの運転手が断言するんだから従うか・・・と、おとなしく座席につき、ほどなく停まった丸山町で下車。

さあて、僕はどこいるんだ?と、バス停にある地図とMAPを眺め、さらにさきほどのSUUNTOに付属するスグレモノのコンパスも駆使して、緩やかな坂道を登り始めた。

ほどなく、浄水場が見えてきた。時代を感じさせるその広大な塀を撮影しようとケータイを取り出すと、なんと「電池不足で・・・」との表示。来しなの列車の中で退屈しのぎにメールやったり車窓の景色を写したりして消耗したのだった。センターに着いたら、昼食よりなにより真っ先に充電させてもらっとかなきゃ!

(だから、このあたり、写真がありませ~ん)

浄水場の長大な塀ををほとんどやり過ごして、いいよこのコーナーを曲がると目指すセンター・・・という地点までさしかかると、正面から大きなワゴン車が近づき、ボクの眼の前に停車する。中からは、今日の招待講演者であり、ぼくの広島学院時代の同級生・・・つまり、林先生の「教え子仲間」である、川本君(現・東京大学教授)が、あたかも、ここで会ったのは当たり前、最初から予定されていたこと・・・といわんばかりの自然さで、小雨にぬれながらとぼとぼと歩いていたぼくを拾い上げてくれる。

まさに、偶然の出会いがしらである。

(とりあえず、ここまで)

え~っと・・・この調子で書いてると、なかなか進まなくて、またもや「続く」で放り投げることになっても愛想つかされますので、以後、少々スピード上げますね。

その川本君ほか二人と、計4名で「唐戸市場」というところに行って、食事する。さすがに、大漁港下関の市場・・・実に壮観なものだったが、ここも、ケータイの電池切れで、残念ながら写真なし。

センターに戻ると(といっても、ボクにとっては、これが十数年ぶりの再訪第一歩だったのだが・・・)、先ほどの大型ワゴン車を運転してくださっていた方が、受付兼売店の中央に立っておられる。改めて名刺を交換して紹介しあうと、大城(おおき)さんとおっしゃるお医者様で、今日の出版記念パーティの主催者でいらっしゃるとのこと・・・あらためて恐縮することしきり。

早速、林神父様の著書「石が叫ぶ福音」を買い求める。友人からも一冊買って来て

・・・と頼まれていたのだが、あいにく現金がなくて、一冊しか求められなかった。

2階の大講義室(?)みたいなところで、記念講演が行われた。

最初、同級生の川本君から「パストラル・ケア」というテーマで、1964~66年の「恩師ー生徒時代・それに続く、主に最近の電子メールでの個人的やりとりを引用しつつ「林先生の人となりとパストラル・ケア」の話があった。交換メールは、主に川本君個人のものであったが、中には同じ同級生のほかの人とのもあった。先生と私の間の膨

「答礼講演」のあと、林神父様に花束贈呈

大なメール(特に、バンコク時代=2000年前後=に、主に東チモール独立運動に関連して交わしたもの)も、一部提供しておけばよかった・・・と思ったが、時既に遅し。あれこそ、まさにpastoral care の典型とでもいうべきものだったのに。

続いて、いよいよ林先生ご自身による、まさに「独演会」。77歳というお歳とはとても思えぬ元気な張りのあるお声(と、しばしばご高齢の方に対して儀礼的に用いるけど、こ

れはそんなもんじゃない!)と、カメラマン泣かせ(実は、私自身がビデオカメラを回してた)の、ものすごい身振り手振り・・・で、1時間近くの「答礼講演」、一同息をつくヒマもなく・・・という感じだった。時折、私の名前を引用したり、はたまた「これ、タイ語でなんていうんだっけなぁ?」と逆質問されたりして、たじたじする一幕も。ちなみに、先生は英語はもちろんのこと、当

然ながらインドネシア語にご堪能、ついでに東チモールの現地語(何でしたっけ?)も・・ということです。

講演後、センターの関係者の方々(お名前、忘れました。ごめんなさい)から花束贈呈(写真:講演の間にこっそり充電しといたので、電池復活)

講演後の立食パーティ(一次会)

予定の15時をちょっと過ぎてから、1階の食堂で、立食パーティ。先生ご自身は、ご著書のサイン会に、一人ひとり言葉を添えて丁寧に書かれる

ので、なかなか食事ができず、我ら一同(特に、唐戸市場でトラフグの寿司一かんだけだった小生は)待ちきれずに食べ、かつ飲み始める。センターに集っていらっしゃるスタッフやボランティアの方々による、心づくしのご馳走を。

(続く) (ちっともスピード上がってませんなぁ・・・)

 

2012年1月24日 17:17:32 カテゴリ: 未分類

第1章 下関駅でのフェアリーな出逢い

親切な少女、Yちゃん

僕たちが中学校1~2年の、わずか2年間だけ母校広島学院に赴任なさってた恩師・林尚志(はやし・ひさし)先生が、このたび岩波書店から初の(?)著書「石が叫ぶ福音」を出版されたのを記念する祝賀会に参加すべく、はるばる200キロ離れた山口県の西端・下関に馳せ参じた2日間を、書こうとしています。

しかし、あいにく明日の夕方~夜にかけて、地元であるイベント(会議+宴会)を主催しており、その準備で、まとまった時間がとれません。

そこで、またもや「続く」の連発となるのをお許しいただく・・・という前提で、とりあえず書き始めました。

*  *  *  *  *

地元の駅五日市から普通列車に揺られること4時間弱、ようやく降り立った下関駅での、最初の出逢いから書き始めます。

しかし、上記のような事情なので、その「最初に出会った」少女の写真だけ、とりあえず掲載しておきます。

なお、この写真の掲載にあたっては「フルネームを公開しない」という約束で、ご本人の承諾を得ていますので、とりあえず「親切な少女、Yちゃん」とでも呼んでおきましょうか。

#  #  #  #  #

(以下、文学的効果に鑑み(!)原則として常体で書きますので、ご了承ください)

11:11、広島市佐伯区の五日市駅を出発してから4時間近くの普通(鈍行)列車の旅を、その終着駅にして本州最西端の駅、下関で終える。

中央改札口に出る。改札の向こうに、23年前(1989年)に林神父様(まだ、当時は54歳であられたはず)が出迎えて下さったお姿がflashbackする。上石神井(かみしゃくじい、東京都練馬区)の神学院で最後にお見かけした1966年11月から、同じくちょうど23年ぶりに再会した先生に対して思わず発した第一声は、「おなつかしい!」でも「ごぶさたしています」でもなく、「先生、おでこ、ずいぶん広がりましたねぇ~」であったことを・・・。

車窓の外は、厚狭駅あたりから雨になっていた。傘の携行を忘れたので、どこぞで「100円傘」でも・・・と物色したが、500円はあっても、100円のはない。

林先生がセンター長を務められる「下関労働教育センター」は、駅から大した道のりではないので、得意の徒歩で・・・と思ってのことであったが、500円はちと高い。そう、赤貧洗うごとく・・の仙人的(?)日常を送る私としては、500円は大金・・それこそ、さらに高いタクシー代と大差ないではないか。

幸い、雨も少しく疎(おろそ)かになっている。よし歩こう・・・そう決意して、改札口の向かいにある大きな案内地図を見る。案の定、「労働教育センター」の表示はないので、最近買ったばかりの最新型ケータイのMAP機能を使って、なんとか位置を同定する。

そこへ、その地図の傍らに立っていた一人の女子高校生(と、その時は思った)が、向こうから声をかけてくれた。「どちらをお探しですか?」いまどきの高校生、しかも女子高校生にはめずらしい親切さと、言葉遣い(敬語)の美しさに、逆に少々ためらいつつも「いや、たった今、見つかったヨ。『しものせきろうどうきょういくせんたー』って言うんだけど、知らないよね?」と答えて、「このあたりだよ・・ほら、日和山公園の・・・」と言いかけるや、「日和山 ?! それなら、バスに乗ったほうがいいです。私、乗り場わかるから案内しますよ」と、生徒さん。「いや、大丈夫、歩くの慣れてるから」と答えるのを遮るかのように「外、雨です、それに・・・」と、私が背負ってた、撮影機材で膨れた大きなザックに眼をやりつつ。

気がついたら、その生徒さん(そうです。書き初めに「親切な少女Y]ちゃんと書いたのが、彼女です)に手を引かれて(誇張です、ハイ)、バス停の7番に向かってた。

「7」という番線の数字が見えてきた。「あ・・・あとは一人で行けるから、ここでいいよ」と言っても、無視するかのようにどんどん先導してくれる。「あそこで、だれかと待ち合わせてたんじゃないの?」というと、やっと振り向いてくれて「いいんです・・・」とやや寂しげに。ひょっとして、相手はカレシか何かで、待ちぼうけをくわされてハブテてるんかな・・・・と、オッサン特有の想像をめぐらしそうになるのを、必死で自制する。このお嬢さんの親切さと純朴な表情に、そんな「オッサンの勘繰り」は似合わない。

二人並んで遠くの横断歩道までぐる~っと迂回して、ようやく「7番」にたどり着く。すばやく時刻表を見て、「あ、11:35がありますね」と告げてくれる。自慢のSUUNTO腕時計をみると11:30近く・・・「じゃ、ついでにバスが来るまでお話してようか」というと、初めてにっこりとしっかり正視の眼(まなこ)を向けてくれた。といっても、生来口下手の私、こんな年下の(!)女性と話すなんて、塾で数学を教えること以外にはないんで、適切な話題も見つからない。さきほどの「いいんです・・」を、ちょっと追求してみようか・・・との邪念も芽生えそうになるが、やはり「自制」を貫く。

そこで、やむをえず、今日の祝宴のためにと、出掛けに大量コピーしておいた名刺を差し出して、その説明をすると「あ、ブログあるんですね!」。「ああ、ホームページ(と、またもやオッサン語)見てるんだね・・・ぜひこれも見てくださいね、君のこともきっと書くから・・・と約束した。

バスが入ってきた。別れ際に「高校生だよね?」と、ぼくにとっては、ごく当たり前の「つまらない」質問をしてみた。「いいえ、中学生です」「えっ!じゃ中3?」「いいえ、中1です」

バスに乗り込んで、左側の窓際に席を取り、手を振ろうかな・・と外を見ると、少女の姿は既になかった。

あの少女、ひょっとして、この本州最西端の港町に住むfairy(妖精)だったのかも知れない・・・「妖精」も、ブログ読んでくれるんかな?でも、確かにフルネーム、教えてくれたんだよね・・・ぼんやりと、あれこれ想いをめぐらせているうちに、降りるべきバス停「細江」を通過していたのだ。

(続く)

 

 

 

2012年1月21日 04:20:56 カテゴリ: 未分類

第1章 ーさごたにへー 05/01/21(金)<br><br>

1月21日、いよいよ引越しの朝を迎えてしまう。午前5時起床で最後の荷物整理。7時に引
越し屋さんが来て09:30にはトラック出発。自分自身は、管理人さんの査定を済ませ
た後10:30ころアパートを出て、新幹線でさごたにへと。広島へ向かうのぞみ号の中で
はひたすらバクスイ(実は前夜、最終電車ギリギリまで仲間とカラオケで盛り上がってました。信
じますか?)<br><br>

広島駅–>(山陽本線)五日市駅を経由して砂谷の我が家到着15時。もしやトラック
が先に着いてて待ってるのでは・・・と坂道を急いで登るが、トラックの姿はな
し。昨夜からの雪がうっすらと積もっていて、誰も歩くことのない、我が家の手前
50mからはクルマは滑って上がらないのでは・・・。<br><br>

大阪府高槻市にある引越しセンターに問い合わせると、目下「峠(とうげ)」という
地名の、文字通り峠道で雪のため渋滞しているとのこと。私が五日市から上がってきたバス
路線(通称、湯来線)には雪は全くないのに、わざわざ雪の多い「峠」を通って
いるんだ。トラックの遅い到着に備えるべく、隣の大上(おおうえ)家に照明を借りに行く。
牛舎から出てきたまことさんにそのことを告げると「ありゃあのぉ、ナビがのぉ、なし
てかしらん、あっちの道ゅぅ教えるけぇ、あがぁんなるんよ。あっちが国道(433
号線)になっとるけぇらしいんじゃが、わりぃことじゃてぇ」(標準語訳:あのな、ナビがどうしてか知らないがあっちの道を教えるから、あんなことになるんだよ。あっちが国道になっとるかららしいんだが、悪いことだよ。)と言いつつ、照明の他に雪かきスコップも貸して下さる。ほどなく、遅れていた
トラックが到着。案の定、家の手前約50mの急な坂道に入るとタイヤがスリップしてあがらず、乗ってきた若いに
いちゃんが必死でタイヤの前の雪かきに精を出す。その不慣れな手つきを見かね
たまことさん、「貸してみぃや」とスコップをすばやく奪い取るや、見事な手さばき。因
みにまことさん、今年71歳。その大先輩を馴れ馴れしくも「まことさん」と呼ぶのは、私の親戚(祖母の実家)だから。恐る恐る狭い坂道を登ってきたトラックは、案の定(?)我が家の手前であえなく田んぼに脱輪、田んぼの中はさらに深い雪なので、どうしても上がらない。そこへまことさん、車輪の直径2mはあろうかという、Ford製 の大型トラクターを持ってきて、その大型引越しトラックにワイアーをかけるや、あっさりと引っぱり上げてしまう。一堂、「おぉー!」。<br><br>

実は、この事件により、あるフラッシュバックが・・・
実は1976年、新婚ほやほや、運転免許も取立てほやほやの25歳の私、しげき青年は、
免許を取ったうれしさで、当時まだここで元気で暮らしていた祖父母(79歳と73
歳)を乗せてドライブすべく、帰広一番広島駅でレンタカーを借りて来て、やは
り同じ場所で見事に脱輪したのだった。小さめのセダンだったのに大人4人で引き揚げようとして
もびくともせず、その時、今回と同じようにまことさんがやってきて、やはり
大型トラクターで、いとも簡単に引き上げくれたのだった。おばあちゃんが涙
を流して、まるで礼拝するごとく、まことさんにお礼を言っていた光景が、29年たった今でもありありと目に浮かぶ。当時
まことさんはまだ42歳だったはず・・・そして当時この地で元気に百姓していた祖父母はとうに還浄(かんじょう、お浄土に迎えられること)。ついでながら・・・助手席におとなしくちょこんと座っていた新婚ほやほやの美しいお嫁さんも、今は・・・嗚呼。<br><br>

話を2005年1月21日に戻そう。
積み下ろし作業そのものは一時間近くで終わり、借りてきた照明も幸いに出番
なく。大型引越しトラックは、薄暗くなりかけた坂道を、再び大阪・高槻を目指して去っていった。もちろん、今度は「峠」なんか通らず、正しく県道42号を通るようにと、丁寧に指示して。<br><br>

さて・・・候は1月21日、大寒の翌日である。当地さごたに・伏谷郷集落は、広島市の中心から直線距離でわずかに20kmほどなのに、えらく寒いこと、雪深いことで有名な場所である。気象学的な理論値(断熱逓減率、またはadiabatic lapse rate・・・覚えてますか、気象学教室の同輩諸君?)では、広島市との気温差はせいぜい3度ほどのはずなのに、常に少なくとも6度は低いことを、地元の方々は体験上知っている。ついでながら、この「6度差」は夏でも眞なりです。つまり、広島が36度の灼熱でも、わが庵(いほり)はせいぜい30度、幼少のみぎり・・・外は半そでシャツ一枚でも、当時かやぶき屋根だった母屋に入るとひんやり・・・長袖を上から着ないと、それこそ「寒かった」のを覚えています。<br><br>

さて・・・その寒さの中、冷え切ったカラダを温めるもの、それは、昨年12月に一時帰郷した折にあらかじめ作動させておいた「3相200V 深夜電力利用電気温水器」(18年の眠りから見事復活!)と、あとは庭での焚き火・・・この二つだけである。<br><br>

片付け作業はすべて明日・・・と、まずはふとんだけ引っ張り出して、すぐに風呂につかり、そして飛び出してから布団に直行して、ひたすら自らのカラダを唯一の暖房器具として、ちじこまる。まだ夕方の6時前・・・でも、こうするしかサバイバルの道は無い。<br><br>

こうやって、わがさごたに帰郷・帰農生活の第一日目が暮れた。<br><br><br><br>