先日、2・17(水)雪の深い恐羅漢山(標高1346m、広島県最高峰)に単独登山した記録を、18(木)~20(土)に3日間にわたって、Facebookの5回シリーズで連載したものを、ここに一まとめにして転載します。
予め申しますが、えらく長いです。ちょっとした短編小説を凌ぐ長さかもしれません。
心してお読みください。
なお、FB上の原文につけた(続く)は、わざとそのまま残しました。原文の雰囲気を味わっていただくために。
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「午前中は曇り時々雪、西または北西の強風、午後からは次第に回復して晴れ時々曇り、風も少しは収まるでしょう」という、早朝の天気予報に賭けてみた。
「賭けてみた」などというと、気象庁さんや各局さんに甚だ失礼ではあるが、この1~2ヶ月の的中率の悪さ(ゆうに50%を切ってましたね、ちゃんと記録してるわけではないですが)を考えると、「賭けてみる」というのが正直な気持ちでした。
先月「雪山登山の練習」にと深入山(しんにゅうざん、およそ1100m)東登山口まで同行していただいたお二人に声をかけたのですが、一人はお仕事、もう お一人は仕事は休みなのだけど、早午前中の時間しか使えないとのこと・・・やむなく今回は単独での雪山登山となったのです。しかも行き先に定めたのは、広 島県の最高峰・恐羅漢(おそらかん、1346m)、数年前に雪山遭難騒ぎのあったイワクツキの山です。
オソラカンへの登山というと、夏焼峠からのコースが通常で、私も2~3度はそのコースから上がったのですが(もちろん、積雪のない時期でした)、今回はちょっとズルイ考えで、今がスキー客真っ盛りのゲレンデ経由で登りました。
その「ズルイ考え」とは・・・簡単におわかりですね?そう、途中までスキーリフトを使うことです!
午後からの天気回復にかけて、かなり遅めの午前10時ぴったりに自宅の草庵を出発、クルマ一台も通ってなくて、それでも、まことに有り難いことにちゃんと 除雪だけはしていただいていた内黒峠越えで100分かけて、お昼ちょっと前にスキー場の駐車場に到着(出発から36キロ)。まずは、戸河内IC近くのコン ビニでアツアツに温めていただいてた弁当を車内で済ませてから、まだ寒風吹きすさぶ車外に出て、長い時間をかけて冬山装備を。
ほぼ満車の駐車場のクルマを掻き分けるようにして、やっとのことでリフト券売り場までたどり着き、おそるおそる尋ねました「あのお~、スキーじゃなくて登山なんですが、リフトに乗ってもいいでしょうか?」
(続く)
リフト券売り場のねぇちゃん、まさに「ねぇちゃん」と呼ぶに相応しい、濃い紫のアイシャドウに、ほっぺには今は流行らない銀のラメ粉、そしてやたら巨大な 耳飾り(そう、もはや「イヤリング」とは呼べぬほどの!)をぶら下げたキャピキャピギャルって印象に全く反して、この変わり者のジィさんに、とても丁寧な 口調で「いいですよ、どうぞ! 一回券は500円です。でも、くれぐれも気をつけて下さいね。ゲレンデから上は圧雪してなくて、ずぼんって埋もるみたいで すよぉ。あ、それからリフトの乗り降りにも気をつけて下さいね~」と、とてもやさしい言葉で、このジジィの目を、その濃い紫アイシャドウにぐるっと囲まれ た大きな眼でまっすぐに見つめながら、丁寧に注意してくれた。
その「一見キャピキャピ娘」さんの親切な注意事項を反芻しつつオソルオソル、かなりのスピードで迫る3人乗りリフトに一人で乗ろうと振り向いて待ち構えていると、急にスピードを下げてくれ、おかげで楽に座るコトができた。
その長い、比較的勾配の緩やかなリフトに乗ること約5分、すばらしい樹氷の光景を見下ろしつつ終点に近づく。降りるほうが乗るよりもずっと怖い・・・(ち なみに・・・関係ないデスが、飛行機の操縦も、離陸よりも着陸がはるかに難しいです!)なんせスキー板の代わりに普通の登山靴なのである。このままのス ピードだと、降りたタイミングに合せて、かなりの速さでタタタッと駆け出さないといけない。大きな一眼レフを入れたかなり重いリュックを背負ってである。 (まあ、スピード落としてくれるだろう・・・乗ったときみたいに)と、またもやあの「一見・・・」娘さんの顔が浮かんだ。
ところが、期待に反してスピードはそのまま、スキー板を履いていないこの哀れなジィさん、まるでリフトから放り出されるように駆け出してしまったのである・・・ほとんど転びそうになりながら。
そこから乗り継ぐ次のリフト乗り場は、スキーで滑り下れば30秒もかからない下方にある。しかし登山靴である。まだワカンを装着していない登山靴のまま で、すっかり固められたゲレンデの端をワッセワッセと歩き下って第2リフト乗り場にたどり着く。そこでも、ほとんど止まるみたいにゆっくりにしてくれて、 おかげで安全に乗るコトができた。さて、今度はさっきの第1リフトよりさらに長く勾配もきついリフトに乗ること数分、2度目の降り場にさしかかった。
そのとき、全く予期せぬことが・・・。
((3)に続く)
この第2リフトは、下の第1リフトに比べて、さらにスピードが速い。今度こそ転倒するんじゃないか・・・と不安がって身構えていたその時、降り場の小屋か ら係員のオジサンがスッと身を乗り出して、にこやかに「こんにちは~、ちょっと停めますね~」と一旦停止して下さり、おかげでゆっくり落ち着いて、登山靴 を雪面に降ろすことができた。
十数歩トコトコ歩いて安全な場所に移動してから、時間をかけてワカンを装着していると、さきほどの係員の方が近づいてこられて、心配そうに
「いやぁ~、下から連絡が入っていましてね・・・スキーを履いてない方が乗ったから、降りるときに気をつけてあげるようにと」。
「下から」のフレイズに、またもやあの「一見・・・」娘さんの顔が浮かんだが、そうではなくて、先ほど第2リフトに乗った場所の係の方からの連絡だったとのこと。
「これから、この深い雪の中を登山ですか・・・十分気を付けてくださいね。私らはモチロンのこと、地元の猟師でさえ、この時期に歩いては登りませんから。ちょっとでも危険を感じたらすぐに引き返してくださいね。私がここにいるのは5時までなんで、それまでには必ず!」
と、優しい口調ながらも厳しく言い渡された。
時計を見るとまだ1時ちょい過ぎだった。「遅くとも4時までには降りてきますよ・・・では念のために名刺をお渡ししときましょう」と、財布から1枚出して 手渡した。それをつぶさに見るなり「おお、理学博士でいらっしゃいますかぁ!実は、私も若い頃に物理学者を夢見ましてね~、でも・・・。なるべく早く降り て着てくださいね、小屋で熱いコーヒーでも用意しておきますから、話しましょう!」
速く降りてきたら、あのリフト監視小屋で熱いコーヒーがいただける! このウレシイお言葉をはなむけに、深い新雪をワカンで踏みしめつつ、ゲレンデから離れて登り始めたのである。
そのころまでには天気はすっかり快晴!雪に飾られた樹々や、遠くに俯瞰される雪の山々・・・標高約1,100mからの、文字通り「天上の世界」の如き素晴 らしい景観を堪能しつつ、それでも喘ぎ喘ぎ一歩ずつワカンをズボズボと沈めていく。何度も立ち止まり、振り返り、時にスマホで写真を撮りつつ。
それでも、樹林が伐採してあって、雪のない季節には草原になっている場所はまだマシだった。歩き始めて30分あまり、標高差まだほんの数十メートルで樹林帯に入ってからは、前進は困難を極めた・・・というより、ほとんど進めない!
樹林帯に入ってまもなく、いきなりズボーッと胸まで埋まった。身動きができない。
(続く)
胸まで埋まったら、おいそれとは脱出できないことは、経験上熟知している。ここは、しっかり落ち着かなければ・・・と、はずむ呼吸を整えるべく、埋まった ままで上を見上げると、木の枝への着雪が、快晴の青空を背景にきらきら輝いている。お弁当を食べ終わっておよそ1時間、少し眠くなってきた。自然に44年 前の初登山のことを想い起していた・・・
* * *
1972年の春、新学期の大学3年からは理学部物理学科に進学が決まっていてワクワクと期待に胸を膨らませていたのだが、当時まだ残り火がくすぶっていた 「学園紛争」のあおりで、なかなか授業が始まらない(ハイ、その頃にはボク自身は「ほぼ足を洗って」、2年前に自決した三島由紀夫とかを熱心に読んでまし た)。
そのヒマを利用して、かねてからやってみたいと思っていた登山を思いついた。にわか勉強で道具を揃え、行き先は北アルプスの奥穂高岳(3,190m、日本で3番目)、まだ雪深い4月下旬の、しかも単独行であった。新田次郎の名著「孤高の人」に感銘を受けていたのだった。
上高地の河童橋で登山バスを降りて涸沢(からさわ)に向かう途中で、それこそ、この度の恐羅漢での「胸まで」どころではない、文字通り「全身すっぽりと」樹林帯の深雪に埋もってしまったのである。
30キロはあろうという大きなキスリング(当時の登山と言えば、茶色の帆布でできた、それ自体でもゆうに5キロはあろうかというザックが定番、それに大き くて重いシュラーフ=今でも大事に使ってる=やら、簡易ツェルトやら大量の食料やらを詰め込んでる)を、やっとのことで肩からはずしてまずは頭上の雪面に 放り上げ(はい、腕力は、今の小生の身体からはご想像になれぬほど強かったデス・・・なんせウェイトリフティング部でしたから)、それから這い上がろうと もがくこと約15分、やっとのことで雪面に立ち、放り上げた巨大なキスリングは、そ~っとひきずりつつオソルオソル進むと、またすぐにズボーッ!
* * *
この繰り返しでほとんどヤケクソになるほど辛苦した44年前のことを思い出しているうちに、ついウトウトとして、ここが穂高への登山道なのか、恐羅漢なの か一瞬わからなくなりました。実に心地よい、眠さと快感の入り混じったフシギな悦楽の境地です。見上げるとそこにはまさに天上の世界の如き光景が。
「お~、神様!」
と、普段まるっきり無神論者の私も、思わず叫びそうになりました。続けて・・・
「神様、これだけの素晴らしい光景を目の前に見せていただいたということは、ぼつぼつそちらにお招きになってるんですかぁ~?でも、少しお待ちください、まだMVP計画が進んでませ~ん!」とも。
しばらくホントに眠っていたらしい。すっかりカラダが冷えてやっと目が覚めた。「ここで引き返すしかないな」と現実的かつ前向きな考えに戻ったものの、なかなか這い上がれない、なんせ胸まですっぽりと埋まってるんだから。
それでも、今は20歳の時の半分もない筋力を駆使して、どうにか這い上がり、やはり穂高のときと同じく、その後も何度も埋まりそうになりつつも、なんとか 樹林帯から脱出することができた。その時ようやくスマホを取り出してFBに「標高1210m、山頂まであと標高差わずか140mなのに、ここで引き返しま す」と送信した。
(続く)
樹林帯を脱出して「草原」に出てからは、すっかり体力も回復して、スタスタと、登ったときの踏み跡を頼りに、わずか20分でリフトの降り場小屋にたどり着く。さっきの係員のオジサン、すでに小屋の外まで出て出迎えて下さった。
「ホントは、一般客を入れちゃいけないんだけどね・・」と言いつつも、私の背中を押すように小屋に招き入れて、早速ご自慢の「その小屋で自分で焙煎から やった」ブラックコーヒーを入れてくださり、そのユニーク!なアツアツをふぅふぅやりながら、冷え切った体内に注ぎ込んだ。
「いや、今はこんなことしてますがね、高校生のころは物理学者を目指して・・・東大の理科I類に受験したんですが、落ちてしまい、一浪したあとは周りから 説得されて、仕方なく広大の理学部に入りましてね・・・ところがほら、私は今71ですが、その頃盛んになり始めた学園闘争(そう、「闘争」という懐かしい 単語を口にされた!)に巻き込まれ、その上学費滞納とかもあって、アッサリ退学処分、あとは今日までずっとフリーターですわ。その間にも、物理だけじゃな く、哲学、政治と興味が広がって・・・そうそう、いっときボードレールにあこがれましてね、それで独学でフランス語をやって、今でも詩の一節を暗誦してま すよ・・・」と、フランス語で延々と朗誦して下さった。しかも、日本人にとってかなり難しいフランス語の発音、特に “r”もほぼ正確に。意味は半分も理解できなかったが、なんとなく詩集”Les Fleurs du mal”(悪の華)のいずれかだったような・・・。
私も、珍しく聞き役に徹して絶妙に相槌を打つものだから、ハナシは延々と止まりそうにもなく、やっとのことで「これから降りてスキーもひと滑りやってから 帰りたいですから」と口をはさみ、それなら・・・とお互いに電話番号を交換しておいとました。別れ際に私からひとこと「面白かったです。実は、今日は話し ませんでしたが、私も似たような経歴を辿ってまして・・・」「そうですか!私も、こんな話を人様にしたのは、生まれて初めてでした!。あっ、冬以外は大分 の別府に住んでますので、ぜひいらっしゃって下さい」
その時のおじさんのくしゃくしゃの笑顔が忘れられない。
リフトは下りは乗れないとのことで、ゲレンデの端っこを、ワカンをつけたまま歩くことおよそ40分かけて下まで降りたときには、すでに16時を回っていた。リフトは17時までで終わりである。
いったん車に戻って、急いで今度はスキーブーツに換え、券売所に行くと、さきほどのねぇちゃんは既に交代していて、若いおにぃちゃんが「おかえりなさい、無事でよかったですね」と。なんとお昼の娘さん、僕のことを「引き継いで」くれてたのだった!
回数券を2枚ほど買い、さきほどと同じく第1、第2と乗り継いで再び、そのオジサン(電話番号とともにお名前もいただきましたが、ここでは控えます ね・・・「一般客を小屋に引き入れるのは違反」とのことなので)が、さきほどと同じく小屋から身を乗り出して「いやぁ~、さっきとは見違えるようです ねぇ~!」と元気良く声をかけてくださった。ゲレンデ閉鎖の刻限も迫っていたので、挨拶もそこそこにスキーでサァ~っと通り過ぎて、そのままかなり斜度の ある(25度くらい?)を、今はすっかり慣れた滑走テクで、一気に下まで滑り降り、これで、延々5時間に及んだ「登山+スキー」を終えてわが愛車の四駆 「とらにぃ」へと戻ったのでした。
車内で久しぶりにスマホを開くと、ヴァイオリニストMさんからの「雪、大丈夫でしたか?」というLINEが。ちょっと感極まりそうになって、いっぱい書き そうになったけど、そこをぐっと抑えて「大丈夫でもなかったです」と短く返信すると、すかさず「えっ、大丈夫じゃなかった?! 今は?」と返って来た。
「今はもう大丈夫、これからクルマで帰路です」と、これまた短く返信して、陽の落ちかかった標高およそ1000mの恐羅漢スキー場を後にしたのでした。
(完)