天気予報が良い方にはずれて、秋晴れの、まさに「小春日和」と呼ぶに相応しい日和の本日、いよいよ八王神社秋祭りのホンバンでした。
ボク個人にとっては、前々から周到な準備を積み重ね、ここでも何度か取り上げました「八王神社由来記」の扱いについて、氏子の皆さんからの意見を求める・・・というのが、今日の最大のテーマだったわけです。
結果を先に申します。いやはや惨憺たる結果、完敗・撃沈されてトボトボと家路をたどった・・・という状況でした。「永久帰郷を果たしてそろそろ11年、この土地の人々のことを、まだまだ十分理解できとらんなぁ~」と反省しきりです。
他の議題もあったのですが、この「由来記」の部分だけで申しますと、結局「継続審議」(結論は一年送り!)となったわけです。
具体的には・・・
(ちょっと休憩)
このあと、少し考え込んだ末に、FBの方には、以下のように書いてしまいました。
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このあと、書き方についてかなり考え込んでました。書き方によっては、ヘタすると、これまで11年近くなんとか折り合いをつけてきた周辺の方々(の大半)と、かなりヤバイ関係になるかもしれないので。そこで、周辺の人も数人FB友になっておられるここよりも、例の場所に書き続けるほうが賢明かと・・・。ということで、続きはアチラで。
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ということで、続きは「こちら」で。
まあ、今日の直会でのごちゃごちゃした議論には余りご興味ないでしょうし、それに私自身、正直余り書きたくもありませんので、ちょっと抽象的になりますが、もっと大きなテーマとして「田舎に落下傘的にやってきた(または、数十年ぶりにU-ターンもした)人間の、「地元の人との折り合いの付け方」の困難さについて、前々から思っていたことを述べてみます。
おそらく、以下のことを実感をもってご理解いただけるのは、Iターン組のUさんーKさんご夫妻やI博士など(以上Zカフェ)や、最近35年ぶりの再会と旧交の温めを果たしたUターン組のFさんなど、ごく少数の方に限定されるかと懸念いたします。
まず最初にちょっとだけ、今日の議論に至る経緯についての説明を兼ねて、恥を忍んで少々ボヤイてみますね。
そもそも私が永久帰郷を果たした11年近く前(2005年1月)、真っ先に峰ちゃん(ボクの当時50年の旧友にして、この周辺での実力者)から「あんたぁ、勉強しとるんなけぇ、歴史にも興味があろう。やつうさん(八王神社)の由来みたよーなことを調べて書いてくれんかい、立て札にしようかと思うんよ」と言われてから10年余り、あまりにも史料が乏しく(限りなくゼロ)あるのは口承による伝承ばかり・・・という中で、なかなか書けずにいたのでした。
ところが、最近になって隣家(で、しかも祖母の里)の大上さんから、私のかつての恩師がまとめられた冊子を見せられて、そこに、八王神社についてのかなり詳しいことの記載があったことがきっかけで、一気に書き上げた・・・という次第です。
(続く)